欲望のありか

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過度な「承認欲求」は人生を窮屈にする 賞賛、非難は話半分で聞こう

こんにちはKJです!
 
皆さん誰かから褒められたりしたらすごい良い気分になりませんか?
僕なんかはあまり人から褒めらることもないので、たまに人から褒められるとうれしい気持ちになります。
 
人から褒められて嬉しくない人間なんて滅多にいないでしょう。しかし、人から褒められてあまりに喜ぶ「承認欲求」が強い人間は、窮屈な人生を送ってしまうのかなーなんて最近ふと思いました。
 
逆に人から非難されて必要以上に落ち込む人もまた然りです。
 
今回は「承認欲求」が強すぎるのは考え物だという僕の考察について共有します。ちょっと固い内容かもしれないですが気軽にサクッと読んでください!笑

皆の根底にある「承認欲求」

僕の持論(といってもありふれた意見)ですが、人間の根底にあるものは「承認欲求」だと思っています。
 
誰かから認められ、もしくは自分が周囲に何かしらの影響を与える事で、自分の存在意義を見出し、「自分は今生きている!」という実感を感じれます。
承認欲求を満たすために、人生の目標を定めそれに向かって努力したり、何かに打ち込めたりするのです。
 
人それぞれ承認欲求を満たす手段は様々です。
お金持ちになる、異性からモテる、出世する、社会貢献する..などなど、様々な形があるでしょう。
 
「社会貢献」も一般的に「他利的(他人のため)」な側面が協調されがちですが、これも突き詰めると自己の承認欲求を満たす手段です。人に貢献している事で他人に影響を与えている、また、他人からの反応を得る事で自分の承認欲求を満たしています。
 
「他人からの感謝なんて求めてないよ!」という姿勢でボランティアなどを行ったりする方もいるはずです。
しかし、「自分が社会に良い影響を与えている」という、自分の存在が周囲に少なからず影響を与えていることに喜びを感じているという点では自己の「承認欲求」を満たす手段になっているのではないか思います。
 
ボアランティアする人を非難しているわけではないですよ!笑 普通に素晴らしいことだと思います!
 
僕が言いたいのは、「人は誰かから認められたり、何かに影響を与えるときに皆生きる実感がわく」という事です。

他人からの承認を得る事に必死になるのは窮屈

当然誰かに褒められたり、認められるのは嬉しいことです。しかし誰かからの賞賛の言葉に人並以上に喜ぶことは危険だと最近思いました。
 
会社で僕は怒られてばっかですが、最近褒められて凄い嬉しかったんです。そんなに会社が好きなわけではないですが、「また褒められるためにがんばろう!」と思いました。しかし、ちょっと考えて自分の考えを改めました。
 
「また褒められるためにがんばろう!」という思考は危険なのではないかと。
 
そりゃ人から褒められるのは嬉しいですよ。特に滅多に褒められたことがない人間にとっては。
しかし、次また褒められることを目的にがんばるというのは違うなと。
人から褒められることを目指すということは、皆が思う僕に対して「こうであってほしい」という人物を目指さなければならないわけです。
 
これは自分の好き嫌いに構わず僕は周りから良く思われるために、その人物像を目指さなければならないわけです。
そのためには無理して他人に合わせることも多くなるでしょう。自分が素直に言いたい事を言えないという機会も多くなるでしょう。
 
それってすごい窮屈なことじゃないでしょうか。
 

他人から言葉を真摯に受け止めすぎないようにする

人からの賞賛や誉め言葉は当然うれしいことですが、その甘美な言葉に酔いしれては良くないでしょう。
また、人からの非難に落ち込みすぎるのも同様です。
 
もちろん中には本当に受け止めるべき意見もあると思います。そこは自分が「この意見は本当にためになる」と心から思ったことだけを素直に受け入れ、自分の糧にすればいいのです。
 
人の意見に敏感になってしまうと、他人が求める人物像に寄せるように行動、言動に配慮しなければならないです。
それは人によってはとてもストレスになるでしょう。
 
人からの賞賛、非難は話半分で聞くくらいの姿勢で良いのではないでしょうか?

まとめ

人からの賞賛は目的ではなく、結果です。自分がすべきと思う事をして、その先に誰かの役に立ち、感謝される、褒められるという結果があるべき姿だと思います。
 
僕も人の意見に流されず、自分に気持ちと素直に向き合い行動に起こしていきたいと思う今日この頃です。
 
何かうまく自分の考えをまとめれていないような気がしますが、要は自分に素直に生きようという事です!笑